令和3年度 盟友の主張

『俺親父を超えるよ!』

荒尾支部代表 田上 隆治

『隆治の父ちゃん・・・えらいでかいね!』  物心ついた頃から、この言葉ばかり言われていました。  私は、25年前、荒尾梨と米作りをこよなく愛する、田上家の長男として生まれました。子供の頃の夢は、家族とともに梨山に行き、カブトムシやセミを捕まえるのが一番の楽しみで、捕まえた日の夜は「明日も行く!明後日も行く!」と、父に言っていたのを思い出します。

小学生高学年になった私は、父が作った荒尾梨への興味が湧き、父に聞きました。 「お父さん、 なんでお父さんの梨ってこんな甘くなると?」 「なんでこんな、でかくなると? どうすると?」と私が質問すると、父は「隆治にはまだ早い、言っても分からんやろ?」 とあしらわれ、「お父さんの腕がよかったい!」 そんな言葉しか返ってきませんでした。

でも当時の話を聞いてみると、この頃から私は、「大人になったら、お父さんよりもでかくて甘い梨を作りたい!」と子供ながらに言っていたそうです。

高校受験を控えた私は、「梨を作りたい!」 という将来の夢に変わりはなく、 農業高校である北稜高校へ進学を決めました。 入学当初、私の頭の中には 「梨を作りたい! 」という思いしかありませんでした。しかし、高校では色々な農業のやり方や考え方を勉強し、その思いも次第に変化していきました。それと我が家でも大きな変化がありました。

その頃、 荒尾梨では高温によるヤケ果 黒星病などの発生が多く、非常に厳しい状況でした。 そこで我が家では、梨の栽培面積を減らし、ハウス梨をやめ、その施設を活用し、梨の収穫後の冬の空いた時間に取り組むことができる、収益性の高いサラダスナップを始めました。 そんな我が家の変化もあり「野菜作りって面白そう」「野菜を勉強してみたい」 と次第に気持ちが動いていました。

高校2年の専門コース選択の時、 そんな気持ちから果樹コースではなく、野菜コースを選択しました。しかし野菜については分からない事だらけで、「なんで野菜を選んだんだろう」 「果樹にしとけばよかったかな・・・」と、弱音を吐く毎日でだんだんと農業に対するやる気がなくなってしまいました。 当時の先生からは農大への進学を勧められましたが、勉強をあまりしたくなかったこともあり進学に前向きになれず、卒業後は家にこもりがちになっていました。

そんな私に「でかい」手が差し伸べられました。それは親父でした。

その頃、 荒尾市では露地茄子の栽培面積が年々増加しており、親父から「おい! 隆治! 就農給付金制度ば活用して、露地茄子ば作ってみらんか?」と勧められ市役所の方に相談して農業をやってみることにしました。 分からないながらも、高校で野菜を専攻していたので、なんとなくできそうだと思っていましたが、いざやるとなると作付けや収支計画などを考えなくてはならず、 分からない事だらけで市役所の方や親父に相談しながら、主食用水稲・WCS 稲・露 地茄子・WCS 稲の裏作として秋冬キャベツという栽培計画を立て農業をスタ ートしました。

水稲に関しては、親父に教わりながらやってきたので大きなトラブルはなく今までやってきましたが、茄子やキャベツは初めてのことで、トラブルだらけでした。

茄子は、JA 開催の講習会に参加し、栽培方法を勉強しました。 そこで、 茄子は水を好み乾燥させると病気が発生しやすくなると聞いたので、水田で適当な場所を探していましたが、場所が見つからず畑で栽培を開始することになりました。1年目台風に襲われ、それまで順調だった茄子は8月に壊滅状態、多少回復したものの出荷量が伸びずシーズン終了。 2年目は、シーズン途中で半身萎凋病の発生により半壊状態、指導員の方からブロッコリーで半身萎凋病の原 因菌を減らすことができるとアドバイスをもらいシーズン途中でリタイヤし、 ブロッコリーを定植しました。 3年目はブロッコリーにより半身萎凋病が軽減されたことを期待して、同じ圃場に作付けを行いましたが、発生は抑えられたものの、やはり目標の出荷量を確保することができませんでした。4年目はそんな私を見かねた親父が、地域の方と相談して圃場を工面してくれました。3年間思うようにいかなかった茄子栽培への気持ちが届いたのか、天候にも恵まれ、何事もなく計画通りのシーズンを終了することができました。

キャベツでは、1年目育苗期に台風に襲われ、苗を小屋に避難させる際に品種が分からなくなってしまい、 JA や種苗会社の方に見てもらったものの、半分は分からないまま定植し、収穫期を迎えた時、見事に混ざっていました。しかし、天候に恵まれたため、 無事収穫を終えることができました。 2年目3年目は、定植までは順調でしたが、降雨や寒波の影響により小玉・ブカ玉傾向となり厳しい生産になりました。4年目では、品種の集約、圃場の排水対策、適期定植を徹底することで計画通りの収穫を終えることができました。

どちらも露地栽培ということもあり、台風や大雨、寒波などの自然災害の恐ろしさを目の当たりにして、最初は就農給付金制度に申請した収支計画とは程遠い結果となってしまいました。しかし、様々な方のご指導により安定した生産ができるようになり、JAを通じて自分の栽培したものがたくさんの人に届いているという実感を持つことができ、遣り甲斐を感じることができました。

JAや農家の方とのつながりも増え始めた頃、地元の梨農家の大先輩より青壮年部への加入を勧められました。青壮年部を通じて、JAたまな管内をはじめ、熊本県下の盟友ともつながる事ができ、色々な目線から農業をみることができて非常に勉強になっています。

まだ就農して7年目ですが、日々勉強だと思っています。今では高校時代に忘れていた子供の頃の夢を思い出し、親父というでかい目標を追いかけながら、いつか夢を実現させたいと思います。

しかし、子供の頃と比べ、気候は大きく変化し、梨栽培も年々厳しさを増しているように感じています。子供の頃の夢と現実は変わってしまうかもしれませんが、これまでに勉強し吸収してきたことを活かして、地域や環境気候に合った私なりの農業を極め、田上家の大黒柱になれるよう、いつか親父を超えたいと思います。