令和3年度 盟友の主張

『あれから十数年』

和水支部代表 田中 靖博

「あ~眠か~。子供たちは今日も元気に学校に行きよっどか。」  

私の以前の仕事は、運送業をしていました。  

毎日家族には会えず、家に帰るのも週一度か、帰れない時で月に一度といった生活の時もありました。九州管内の仕事の時でも子供たちが寝ている時間に家を出て帰り着くのも夜遅く子供たちと接する時間がほとんどありませんでした。

そんな中、農業をしている義兄から時々電話がかかったりしてきて、朝から話をしているとでんわの向こう側で姪っ子たちが「パパ、行ってきます!」との声が聞こえるのです。ある意味、私と180度違った生活。農業って子供達と接する時間があって良いなとよく思ってました。

その頃から農業をやってみたいと薄っすら思う時もありました。元々実家は農家ではありましたので、全く農業に携わった事が無いという訳でもなく、手伝い程度の作業経験はありました。そのため、いづれは実家の農業を継ぐ事は考えていましたが、直ぐに実家を継ごうという思いではなく、農業は年を取ってからやろう、というような考えでありました。

徐々に運送業の仕事も厳しくなってきて、時間がある時は義兄の農業の手伝いに行く事も何度かあり、そんな中、義兄から「農業をやってみないか。」と誘って頂きました。私はどうするか考えに考えて、私は「よし、やってみよう!」という気持ちになり、義兄の元で働く事になるのですが、その前に一つ難題がありました。  

それは、私の家族でもあります、妻を説得するという事です。私が農業の仕事がしたいから直ぐにやれるかというと、そうではありません。妻が簡単に「良いよ。」と言ってくれるハズでも無く、毎日妻を説得する日が続くのであります。

しかし、なかなか私の思いが伝わらず、少々バトルする日もありました。妻は農業で家族を養っていけるのか、といった不安があったようで、私は絶対大丈夫とは言い切れませんでしたが、「いづれは家族を今まで以上に幸せにしてみせる」といった思いで、やっと妻を説得することができ、ようやく義兄の蒲池農園へ就農することができました。

当時は、冬はハウスナス、夏は露地ナスを毎日毎日ナスと向き合い一つ一つ作業を覚え、いろんな作業内容を吸収していきました。就農から3年経った位で、ナス栽培からイチゴの栽培へと切り替わり、毎日が格闘の日々であります。日の出とともにイチゴの収穫が始まり、夜中までのパック詰め作業。大変な毎日を嫌になることなく、作業をこなしていきました。

イチゴ栽培を始めてからまた3年が経った頃に、次はイチゴ栽培からミニトマト栽培へと切り替わっていったのです。この頃になると全ての仕事に任せてもらえるようになっていきました。ハウス管理、温度管理、かん水や農薬散布など他にも沢山の仕事を任せてもらっています。

ミニトマトには、いろんな病気がありますが特に気を付けていなければならないのが、黄化葉巻病です。黄化葉巻ウイルスがコナジラミによって媒介され伝染する病気です。毎日観察して、一匹でもコナジラミが発生していれば直ぐに農薬散布するといった状況でした。コナジラミが発生すると壊滅的な被害を受けかねませんので、毎日の観察は怠れませんでした。

ミニトマト栽培は以前のハウス栽培以上に神経を使っていました。その他にも毎日のハウス管理が大変なのですが時に高温障害になったりもします。密閉状態のビニールハウスは日射により高温多湿となりやすく病気にかかりやすくなるのです。適度に換気をして温度と湿度を下げることが重要です。注意して管理していても病気になる時もありますし、一夜で病気が一気に広がる場合もあります。病気が広がった後は、病気がそれ以上広がらないように対策することが必要です。早めに農薬散布をして後日、葉面散布で対応します。それでも治らない時は、農薬散布と葉面散布を繰り返し行います。いかに病害虫を最小限に抑えるかが日々の課題です。沢山の大変な作業課題がありました。

年々と規模拡大をしていきましてハウスも従業員で建てられるようになり、ミニトマトの作付面積も大きく広がりました。同じ時期に技能実習生が一期生、二期生合わせて計8名の指導をおこなっていくことになりました。初めの頃、技能実習生に作業内容を教えるのですが、ここでも大変な難題がありました。それは言葉の壁です。少しの日本語は話せるのですが、作業内容を教えるとなると一つの作業を教えるのに30分以上時間がかかる時もありました。また、時には「はい。分かりました。」と元気よく返事するのですが、私が説明した内容を理解できていない時も何度もあり大変苦労した時期もありました。

のちに技能実習生の指導資格を取得し、5ヶ所のミニトマトハウスの管理やかん水等をしながら、技能実習生の指導して午前中の作業が時間に追われて終わるといった日々でした。

そんな中、父親から「そろそろ実家に戻って来い」と言われてはいたのですが、今働いている農園を直ぐに辞めることは出来ませんでした。それは、技能実習生達が仕事を覚えて自分達でできるようになったら実家の農業を継ごうという思いからでした。

それから2年後に実家のイチゴ農家を継ぐ事になったのです。現在、作付面積1反5畝を両親と3人で営んでいます  

今までの経験を活かし新たな気持ちで仕事に取り組みました。一年目は多少分からないこともありましたので、両親の指導を受けながらの作業でした。二年目からは、私に任せてもらいました。かん水液肥の配分や葉面散布のタイミングや農薬散布などいろいろあり、農薬散布は病害虫が発生する以前や手遅れになる前に散布するように心掛けています。その日の仕事が終わり、次の日の作業内容を前日の夜に把握するようにしています。その日の作業がスムーズに行える事と、時間のロスが無いようにです。また、品質向上のために、この頃から早朝3時、4時からの収穫に挑戦しています。これは、イチゴに日射が当たると傷みやすくなるのを避けることと、両親を少しでも楽させたいといった思いで挑戦することを決意しました。二年目には豪雨災害の被害に遭い、イチゴ苗は泥水に浸かり全滅となり、ハウスもダメージを受けました。イチゴ苗のポットの中に入った泥水を洗い流そうとしていたところ、地域のイチゴ部会の方や盟友の先輩が様子を見に来てくださって、水で泥を流しても定植した後に枯れる恐れがあり、枯れない苗があっても、かなり植え替えしなくてはならないとの事でしたので、仕方なくイチゴ苗を諦めました。イチゴ部会の方々や盟友の皆様からイチゴ苗を譲って頂きまして、その年は無事に例年通り定植する事が出来ました。協力して下さった皆様、心配して下さった皆様には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

改めて人と人との繋がりって良いな、としみじみ思いました。地域の皆様、部会の皆様、そして盟友の皆様、今までいろんな方々に支えられ、今日の自分の自分の姿があります。  

今コロナ禍で盟友と接する機会や話をする事が随分と減りましたので、情報交換が以前より出来ていないのが現状です。コロナが一日でも早く終息するのを願っています。  

今日より明日、明日より明後日と、一歩一歩前進して行こうと思い、今日の自分より明日の自分の成長を目指し、自分を信じて日々を頑張っていく決意です。